伊藤若冲の世界
伊藤若冲は江戸時代の京の絵師です。伊藤若冲は写実と想像を巧みに融合させた「奇想の画家」と呼ばれます。余談になりますが、伊藤若冲が正しい表記です。「沖」の字ではなく「冲」が正しい字です。
伊藤若冲の生年月日は1716年3月1日。伊藤若冲の没年は1800年10月27日。
伊藤若冲は京の錦小路の青物問屋である「枡源」の長男として生まれた伊藤若冲は、23歳の時に父の死を境に四代目源左衛門を襲名します。伊藤若冲の号は、禅の師匠であった相国寺の大典顕常から与えられた居士号になります。
伊藤若冲はたいして商売に興味があったわけではなく、伊藤若冲の関心は絵を描くことのみに向けられていたようです。伊藤若冲は酒も飲まず妻も娶らなかったといわれています。
伊藤若冲が40歳になったとき、早々に家督をすぐ下の弟に譲ってしまい、伊藤若冲自身は作画のみに打ち込む生活に入ります。その後の伊藤若冲は85歳で天命を全うするまで、伊藤若冲の名前で多くの作品を描き続けています。
晩年の伊藤若冲は天明の大火により窮乏していたといわれ、伊藤若冲は石峯寺の傍らで隠棲していたようです。そこには伊藤若冲によって作られたと伝えられる伊藤若冲の名前がある石像群が残されています。
伊藤若冲は、近年まではさほど有名ではなく、いわゆる「知る人ぞ知る絵師」でした。ところが伊藤若冲は1970年、辻推雄氏の「奇想の系譜」が出版されたことにより伊藤若冲は注目を浴びます。伊藤若冲の評価は90年代後半から飛躍的に高まり、伊藤若冲の超絶した技巧や奇抜な構成は高い人気を誇ります。
伊藤若冲の墓碑銘によれば、伊藤若冲は狩野派を学んだ後にその画法を捨て、宋元画の模写に励んだとされます。さらに伊藤若冲は宋元画の模写も捨て、実物写生に移行したとのだと伝えています。
伊藤若冲の実物写生は、当時の実証主義的な気運の高まりの影響を伊藤若冲も受けたからのだとも言われています。
伊藤若冲の作品には山水画が少なく、伊藤若冲は濃彩の花鳥画を得意としています。特に伊藤若冲が得意としていたのは鶏の絵でした。
色彩豊かで美しく緻密な描写が得意な伊藤若冲ですが、写生画とは言いがたい伊藤若冲独特の感性と感覚で捉えられた形態・色彩を展開しています。
伊藤若冲の水墨画には、伊藤若冲のユニークで軽妙な感性が現れている作品が多いのですが、画箋紙に墨がにじむ性質を伊藤若冲は巧みに利用しています。山水画の伊藤若冲の代表的な作品は鹿苑寺大書院障壁画50面になります。
伊藤若冲は、狩野派の絵師大岡春卜に師事したとの記録があり、伊藤若冲の墓碑銘にも狩野派に学んだとありますが、伊藤若冲が誰かに指示したことを示している史料は現存していません。
現存している伊藤若冲の作品からは狩野派の影響を見つけ出すのは困難極まりないのですが、伊藤若冲の作品に見られる図様からは狩野派との類似点が指摘されています。